2021年04月28日

私も50歳になりました

2021年4月28日、ついに私も50歳になりました。
節目の年齢でもあるので、ちょっと感じていることをつらつらと。

自分がおよそ90歳ぐらいまで生きるという仮定に立てば、すでに人生の後半戦に差しかかっていることになる。(100年時代とはいえ、実際には男性の平均寿命は90歳ぐらいで落ち着くのではないかという想定)

20代や30代の頃には、50歳の自分なんてまったく想像できなかった。
先も見えて衰え、下っ腹も出て、能力的にも下降を始めるおっさんぐらいの認識だった。

しかしいざ自分が直面すると、まだまだ頭脳は冴えていて、上り坂であることに気が付く。(知らんけど)
むろん成長曲線は緩やかになり、かつてのような実務能力の急激な成長は見込めなさそうだが、思考力や判断力、メンタル面などの部分で成長できていると実感できる。(知らんけど・笑)

もちろん当然ながら運動能力も見た目の若さも衰えている。
10代の頃は、たとえば5,000メートルを15分台、100メートルを11秒台で走っていたのに、今は見る影もない。
頭髪はすでに半分くらいが白髪となり、10年後はおそらくほぼ真っ白になるだろう。自分の父親に似るならば、頭髪そものものがなくなっていくかもしれない。
シワやシミも増えた。

しかし、そもそもそこは、自分が価値を発揮する領域ではない。
どんなにかけっこが速くても1円にもならない。見た目が若くて周囲から憧れられても、自分のアウトプットの価値とは関係ない。
アンチエイジングだなんだと年齢に抗うのではなく、自然体のナチュラルエイジングというか、年齢に相応しいグッドエイジングというか、そこは流れに任せようと思う。

そして、時間の使い方は、かつての自分中心から、家族中心へと変わってきた。
成長の一要素に「喜びの目線が変わる」というのがあるが、会社員時代や起業当初の頃には面倒くさいと思っていた子育てが、いまは喜びになっている。

そんな自分の人生の後半戦の役割のひとつは、「自分が自分が」よりも、次の世代にバトンを渡すことではないかと思っている。
後世に引き継がせたいことは何か、自分が若い世代に差し出せるものは何か。それを模索し、情報発信していく。
ただしスタンスはこれまでと変わらず、「自分が実践し本当に良いと思ったことを紹介する」「失敗も含めて公開する」という姿勢は貫きたい。
そもそも自分でやらずして良い悪いという評価はできないし、それは無責任だと思うから。

そのためにも「つねに新しいことに挑戦する」が必要になる。
だってそうしないとネタが尽きてしまうし人生もつまらないから。
そう考えれば、失敗は恐れることではなく、むしろ「ネタになる」わけでうれしいことになる。
これはとてもラッキーなことだ。

もうひとつの役割は「思考停止していくこの社会から人々を救う」こと。
「救う」と言うと大げさだけど、「こういう考え方もあるんじゃない?」という提案に近いだろうか。

世の中は確実に思考停止社会に向かっている。
たとえば書籍の売上が減り動画が全盛になるのは、考えてなくていいという側面があると思う。
なぜなら、動画は時間当たりに得られる情報量が、文字と比較すると圧倒的に非効率だから。
「本当?」
「それはなぜ?」
「その本質はどこ?」
などといちいち考えるのは確かに面倒なんだけど、でも考えることから逃げる人は、より賢い人が考えた仕組みに搾取され続けることになる。

そして多くの人は「こうあるべし」「こうあってはいけない」という思い込みに縛られている。
そういう社会の無言の圧力に従わされている。
それも思考停止のひとつの症状だと思う。

たとえば長男の小学校の学校説明会に行ったとき、クラス35人中、出席していた保護者は全員ママで、パパは自分一人だった。
これも「子育てはママの役割」という暗黙の了解に縛られているということだと思う。

私たち夫婦は仏滅に結婚式を挙げたのだが、それで割引を受けられたし、他のカップルもいなかったので、1時間も延長したのに大丈夫だった。むろん延長料金もない。
仏滅や大安を定める「六曜」はもともと中国由来の慣習で、でも本家の中国では意味がないものとしてとうに廃れている。
つまり根拠などなく、それを気にする理由もない。
ほかにも「高校生らしくない」とか「不謹慎だ」などという批判も、それを言う人が単に気に入らないというだけであって、合理的な理由や判断基準なんてない。

そうした、この世を覆う根拠のない固定観念や社会の圧力に気づいてもらい、自分の頭で考え、自己責任で判断・行動できる人が増えるよう、啓蒙活動を続けていこうと思う。

一方、子育てについては、18年間という期間限定の娯楽のような側面がある。
自分にとって子育ては単なる娯楽。
責任とか子どものためにとかじゃなく、自分が楽しいからやっているだけ。
そしてわが家は自分のときと同じく、高校を卒業すれば家から出て自立してもらう予定にしている。

18,19歳にもなれば、もう親の支援は必要なく、自分の生き方は自分で決められる、という人間になってもらいたい。(もっとも、自分のときのように親に反抗して期待通りにならない可能性もある。それもまた楽しいだろう)
だからそれまでは子をよく観察し、子の意志や自発性を尊重し、先回りし過ぎず考える力をはぐくみ、求められたらサポートは惜しまず(でも安易に答えは教えずお金も残さない)、子の没頭を応援しよう。

そのためにも、お金はもちろん、時間や思考の領域を空けておかなければならない。
かつては起業家・経営者として複数の企業を経営し、つねにいくつものプロジェクトを抱え、いろんな事業部門を立ち上げていた。
全方位に興味関心のアンテナを張っていたこともあり、時間も精神的な余裕も少なかった。
それで子育てが面倒とか、自分の健康にも無頓着だった側面はあると思う。

しかしいまは全面的に流行を追うのではなく、自分にとって重要・必要な領域だけをアップデートし、それ以外のことはいままでに確立したやり方を変えずに生きる方が効率的だろうと割り切っている。
自分がアップデートする分野を絞り込むことで余白時間が生まれるから、家族の時間、健康のための時間など、限りある自分の時間をうまく配分していくことになる。
何にウエイトを置くかというバランスの組み換えであり、何をショートカットやスキップして手抜きするかという、選択と集中でもある。

そしておよそ20年後には、再び夫婦二人だけになる。(ひとりだったりして?笑)
自分には定年退職や再就職という概念はないから、生涯現役で仕事を続けていくことになる。子は巣立っても、自分の人生は以降も続く。
自分のワークスタイルや得意分野、興味をそそられる領域が固まってきたから、大きな路線変更はないかもしれないけれど(あったらあったで楽しいけれど)、知的好奇心を失わず、新しいことには取り組んでいきたい。

とはいえ確かに、かつてのようなフットワークの軽さはない。
主催する起業塾に来ていた25歳の塾生が、「固定の住居を持たず、ホテルを転々とする生活をしようと思う」というのを聞いたとき、「その発想はなかった」自分に気づく。
かつては海外投資で世界を飛び回っていたけど、最近は面倒くさいと感じる。(現実問題としてコロナで行けないけど)
おそらく感動とか価値観の違いの認識やらはすでに織り込み済みなので、自分の感性や視野拡大に刺激を与える余地がもう小さいからだろうと思う。

わかりやすく言うと、スマホに慣れた人が、今さらタブレットや最新鋭スマホに乗り換えたところで、新しい自分や新しい視座が見つかるなんていう期待は薄いようなものか。
良くも悪くも「自分はこういう人間だ」「自分にはこういう生き方が似合っている」というものが固まってきて、自分探しをすることもないし、迷うこともない。

ただしそれがこじれると、「好奇心を失う」「ガンコ」「頭が固い」「変化を拒む」「現状維持」「既得権益にしがみつく」になるから注意は必要だ。
それを防ぐために意識しているのは、「自分には知らないことはいっぱいある」「自分の考えが間違っているのではないか?」「もっといい方法があるのではないか?」と振り返ること。
自分の無知や固定観念に気が付くこと、そしてそれを受け止め軌道修正できること。
無知の知を自覚することは人生のバージョンアップに役立つはずだから。
現実にはなかなか難しい行為なんだけれども。

また、自分の価値観という軸は大切にしつつも(その軸すら柔軟に変える必要はあるけれども)、前述の通り自分の幸福に寄与する領域はつねに最先端にしておこうと思う。
その軸はいまのところ「自由」に設定している。

自由とは「自分で選べる」「環境変化に翻弄されない」「他者からの干渉を受けない」ということ。
自分で選べるためには、経済力が必要。
環境変化に翻弄されないためには、複眼的な思考力が必要。
他者からの干渉を受けないためには、メンタルの強さが必要。
だから引き続きこれらを鍛えていこうと思う。

そして、いままで以上に面白いと思えることだけをやり、面白くないことはやらない。
自分の好奇心の対象が狭まっているとはいえ、やりたいと思えることは何でもできる現代日本は、やはり素晴らしいと思う。
海外を見てきたからこそ、よくわかる。
あと40年、いやいや、まだ40年もある。
コロナや自然災害に限らず、これからも想像すらできなかったことが起こるだろうけれど、未来は明るく楽しみだ。
posted by 午堂登紀雄 at 14:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月12日

最新刊『人生は「あきらめる」ほうがうまくいく!』(河出書房新社)発売のお知らせ

最新刊が発売されました。

人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄
人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄

2020年、世界中で猛威をふるった新型コロナウイルス。この影響で、多くの人がさまざまなことをあきらめざるを得ない状況に追い込まれました。

事業の継続を断念した、仕事を辞めた、進学や学業をあきらめた、結婚式や告別式をあきらめた……。
この「あきらめる」には、無念さ、苦しさ、みじめさ、挫折、夢破れて撤退、といった苦渋に満ちた敗北のイメージがあります。
また「あきらめた人」には、無能、意志が弱い、根性なし、無責任、などというダメ人間のイメージがあります。

一方、「継続は力なり」「あきらめたらそこで試合終了だよ」「石の上にも3年」「初志貫徹」などの言葉が私たちを縛ります。努力という名の宗教が、社会的な圧力をかけているようにすら感じます。

しかし、あきらめるのはそんなに悪いことなのか。あきらめたら本当に試合は終了するのか。
これまで私はあまり深く考えてきませんでしたが、探ってみたいと思い書いたのが本書です。

私の人生はあきらめたことのほうが多い

というのも私自身、振り返れば多くのことをあきらめながら生きてきたからです。
たとえばこんなことです。

・小学校のとき、アマチュア無線に憧れて免許を取ろうと思ったけれどむずかしすぎてあきらめた
・中学校ではバレーボール部のキャプテンをしており、高校ではバレー強豪校への進学を考えたこともあったが、毎回地区予選で初戦敗退の自分の実力ではレギュラーにすらなれないだろうとあきらめ、距離の近い新設校へ進学した
・東京で進学したいが国立大学は東大・東工大・一橋大・東京外語大など難関ばかり(他にもあったのに当時は知らなかった)なので受験はあきらめ、私立大学に絞った
・日本の公認会計士をあきらめた(他にも旅行業務取扱管理者や社労士、証券外務員、宅建などの通信講座の教材を買ったことがあるものの、ほぼ手をつけずに捨てた)
・英語の習得をあきらめた(ずっとコンプレックスを抱え、吹っ切れたのがなんと44歳のとき!)
・事業をあきらめた(車のカスタマイズ事業、不動産検索サイトの運営、エステサロンの経営、化粧品の通販、不動産仲介業、語学留学斡旋業など)
・経営者として組織を率いることをあきらめて「ひとり会社」になった。

一方で、あきらめなかったこともあります。

・米国公認会計士(とにかく合格するまで1年半粘った)
・執筆業

あれ、これだけ? あきらめなかったことよりもあきらめたことのほうが多い!
でも振り返って考えてみれば、あきらめるというのは選択と決断だったというのが素直な感想です。

あきらめるとは、自分に向いていない道を捨てて、より向いている道を模索することのような気がします。

私は「経営者」をあきらめ、「執筆業」をあきらめなかったわけですが、それは自分が本当に好きなことを選ぶことでした。
そして、前の試合はたしかに途中で終了したかもしれないけれど、自分が勝てそうな新たな試合が始まったということに気がつきました。

自分に向かないと感じたこと、充実感を覚えないこと、儲からないことを何度も何度もあきらめて、ようやく今の最高に幸福な状態にたどり着くことができたのだと思います。

子どもの頃に思い描いた夢をずっと持ち続け、それを実現した人ももちろん素晴らしい。
でも、あきらめたからこそ手にできる道もあります。

プロ野球選手になることを選べば、プロサッカー選手になることも、フィギュアスケートでオリンピックに出ることもあきらめなければなりません。掛け持ちでは労力が分散し、一流にはなれないでしょう。

この人と結婚することを選べば、あの人との結婚はあきらめなければなりません。
日本では重婚は法律で禁止されているし、掛け持ちするとむしろ大変なことになりそうです。

二兎を追って二兎とも得られれば、もちろんそれが理想。
私自身、さまざまな場面で二段構え≠意識しています。
しかし、二兎を追う者は一兎をも得ずということも、現実にはやはり多いような気がします。

未来を明るくする前向きなあきらめ方が必要

人生は選択の連続で、その積み重ねで今がある。
もしあそこで違う選択をしていたら?
違う大学に進んでいたら?
違う会社に就職していたら?
あの会社に転職していたら?
別の人と結婚していたら?

そんな大きな決断だけでなく、どの本を読むか、誰に会うか、何を勉強するか、何にお金を投じるか、あの人からの誘いを受ける(断る)かといった小さな決断によっても、「別の道を選んでいたら、違う人生になっていたかもしれない」と思うことはたくさんあります。

私自身、違う高校に行っていたら? 別の大学を選んでいたら? あの会社に就職していたら?
もしかすると、今のような自由な生き方をしていなかったかもしれません。
違う人生を生きることも試すこともできませんが、でも選んだ道の軌道修正はできるし、今から別の道を選ぶことはできます。

もし今が不満であれば、これからの選択を適切にすればいいだけのこと。
それには今やっている何かをあきらめなければなりません。
あきらめるとは「幸福に向かうチョイス」であり、「より大事なものを選ぶために、そうではないものを捨てる」ことなのでしょう。

それには、「失意」や「挫折」によるあきらめ方ではなく、よく言われるとおり「未来を明るくする、自分の適性や才能を明らかにする」という前向きなあきらめ方が必要です。

物事をあきらめるタイミングはあるのか。どういう場面ならあきらめたほうがいいのか。良いあきらめ方があるとすれば、それはいったい何か。
本書は、そんな発想や技術を提供する、幸福に向かう「あきらめ本」という位置づけで書きました。
この本が、あきらめずられずに苦しんでいるあなたにとっての選択や判断の一助になれば幸いです。 

人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄
人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄
posted by 午堂登紀雄 at 15:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月30日

4月18日(土)「コロナ時代に1億稼ぐ起業術」セミナーのご案内

4月18日(土)に「コロナ時代に1億稼ぐ起業術」というセミナーを開催します。
https://peraichi.com/landing_pages/view/maisuta3

※遠方の人、疾病リスクの高い人、高齢者との接点がある人もいると思いますので、オンライン会議アプリ「zoom」での視聴も可能です。

今後重要になってくるのが、ネットを活用した副業・起業の力だと思います。
むろんそれは今すぐ会社を辞めてということではありませんが、自分で商品・サービスを作って値段を付けて売る、という一連のプロセスを構築する力です。

緊急事態宣言が明けワクチン接種も始まってきたとはいえ、感染者数は多くコロナの影響は長期化しそうです。
業種業界によっては、早期退職募集などの実質的なリストラが起こる可能性があります。

そしてリモートワーク・テレワーク、オンライン・非対面・非接触という生活様式、ビジネス形態が定着すれば、自分の活動をある程度自由に構築できます。
また、自然災害の脅威は年々増している印象で、首都直下型地震や南海トラフ地震の脅威が叫ばれているのはご存知の通りです。

そういう生活を守るという意味だけではなく、より人生を楽しめる働き方が実現できます。

特に「経験」には「不可逆性」があります。
それは、「経験してしまったら、経験する前には戻れない」ということです。

たとえば一度自転車に乗れてしまえば、「自転車に乗れない」という状態に戻ることは、意図的でない限りできないでしょう。

これは「起業」にも同じことが言えて、「起業してしまったら、起業しないという選択がありえない」ようになります。
それは「自由」「楽しい」「収入に上限がない」という働き方だからです。

セミナーの第1部では、ネット通販のプロフェッショナルである、西村公児さんが、ネットを活用したビジネス発想術やノウハウを語ってくれます。

第2部では、億を稼ぐためのマインドと方法論を私がご紹介します。
引きこもりで人と会わなくても稼げる方法なので、特にコロナ時代に適していると思います。
これは私個人の価値観ですが、ネット起業家×ネット投資家が最強の生き方だと考えており、実績などを用いながら解説する予定です。

終了後は交流会(懇親会)もありますので、自由にご質問をしていただくことができます。
ぜひお気軽にご参加いただければと思います。

お申込みはこちら↓
https://peraichi.com/landing_pages/view/maisuta3



■有料メールマガジン

まぐまぐ大賞2019のMONEYVOICE部門で9位をいただきました!
「午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門」
http://www.mag2.com/events/mag2year/2017/category/money.html
現在進行形で取り組んでいるビジネス・投資・コスト削減策などの活動状況とその成果を紹介しています。
今後発売する新刊の原稿も先んじて全文公開しており、私の著作すべてをこのメルマガで読むことができます。
また、新刊をプレゼントする特典もついています。
http://www.mag2.com/m/0001370991.html


■書籍近刊

「“自己肯定感"のスイッチが入る! 自分を受け入れる力」
https://www.amazon.co.jp/dp/4413231775/

「自分なりの解決法が見つかる 前向きに悩む力」(日本実業出版社)
https://www.amazon.co.jp/dp/4534058071/

「年収1億円を稼ぐ人の頑張らない成功法則」(学研プラス)
楽天ブックス
https://a.r10.to/hbbB9F
アマゾン
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『「人見知り」として生きていくと決めたら読む本』(すばる舎)
https://amzn.to/2Q2rV47

『年収1億円になるためのノート』(WAVE出版)
https://amzn.to/2I4HIua

『「できないことはやらない」で上手くいく
嫉妬、コンプレックスを「捨てる」技術』(WAVE出版)
https://amzn.to/2Y0ZB6D

『1億稼ぐ子どもの育て方』(主婦の友社)
https://amzn.to/2I9SuC0

『「稼ぐ子」に育てるために今すぐやめる24のタブー』(マガジンハウス)
https://amzn.to/2S9GmkJ

『マンガ版「年収1億を稼ぐ人、年収300万で終わる人』(学研プラス)
https://amzn.to/2IL0vdu


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うまく解除できないという場合は、大変お手数ですが、本メールに
「解除希望」とお書き添えの上、ご返信くださいますよう、お願い
申し上げます。
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2021年03月23日

「第3子に1000万円支給を」高所得者が子育て支援から外される"罰ゲーム"はなぜ続くのか

プレジデントに新しいコラムが掲載されました。
まあ、最後の1,000万円支給というのは読者の思考を駆り立てるための演出ですが、「子育て支援はどうあるべきか」「少子化対策はどうあるべきか」を考えるフックになればと思います。

児童手当の「特例給付」廃止は、富裕層から大ブーイング
現在の児童手当は、中学校卒業までの子ども1人につき原則月1万円(第1子・第2子は3歳未満、第3子以後は小学校卒業まで月1万5000円)が支給されます。

ただし所得制限があり、「夫婦のうち高い方の年収」が960万円程度を上回る世帯には児童手当は支給されず、代わりに「特例給付」として年齢・人数にかかわらず子ども1人につき月5000円が支給されています。

ところが、2022年10月の支給分から、「夫婦のうち高い方の年収」が1200万円程度を上回る世帯には、この「特例給付」を廃止することが閣議決定されました。

待機児童解消に向け、2021年度から2024年度までの4年間で約14万人分の保育の受け皿を整備することを目指していることから、そのために必要な安定的な財源の確保策において、今回この「特例給付」を廃止し財源にする見込みのようです。

※実際には所得額で判定されますが、サラリーマン世帯が多いため、わかりやすく年収ベースで紹介しています。所得額は家族構成やその他の所得区分の有無、所得控除等で変わります。

富裕層や高所得層の間で、この改正案がとにかく大ブーイングとなっているのですが、私も同感です。

ではなぜ大ブーイングかというと、「手当てがもらえないから」などという矮小な発想からではありません。彼らはその程度の金額で一喜一憂するほど金銭的に困っているわけではありません。

そうではなく、改正の論拠に論理性がないこと、優先順位の不透明さ、説得力のなさ、思慮の浅さが透けて見える議論に異を唱えているのです。もっとはっきり言うと、「もうちょっとまともに考えられないの?」というわけです。

高額納税者への追加の罰ゲーム
そもそも子育て世帯を支援する制度は非常に充実しつつあり、そのおかげで夫婦共働きが実現しているという側面があります。

そしてその結果として高所得になったという人や家庭もあるはずで、政府は良い仕事をしていると思います。いろいろ課題はありますが、その点は肯定的に評価します。

そして高所得者は、所得税、住民税、社会保険料をふんだんに払っています。特に所得税と社会保険料は収入に連動するため、その貢献度は大きいと言えるでしょう。その一方で高所得世帯は、現状でも子育て関連ではほぼすべての制度で所得制限に引っかかり、補助金・助成金などは対象外です(そういえばわが家も以前、長男の保育料が月7万円、次男の保育料が2人目半額で3万5000円で月10万円を払っていた時期がありましたが、児童手当は二人で月3万円ではなく1万円でした)。

そもそも富の再分配機能としては、彼らは納税した時点ですでに貢献しているにもかかわらず、これでは追加で罰ゲームを与えられているようなものでしょう。

続きはこちらから↓
https://president.jp/articles/-/44195
posted by 午堂登紀雄 at 13:55| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月10日

東日本大震災から私が学んだこと

ビジネスジャーナルに寄稿した記事をご紹介します。

2011年3月11日に起こった東日本大震災から10年。
多くの人の価値観に影響を与え、死生観や人生観を変える出来事でした。
それは私も同じです。

とはえ当時私は大阪へ向かう途中で、そのとき乗っていた新幹線が地震でしばらく停車しただけでした。
つまり直接的に地震を体験してはいませんが、東京に戻ってから見た混乱や、その後海外に出て感じた報道の違いなどを通じ、相当な危機感を抱きました。
それで私自身、自分の働き方や生き方を変えようと変革に取り組んできたのですが、それが奇しくも今回の新型コロナウイルス感染拡大にも適応できたという副産物がありました。

そこで今回は震災以降私が取り組んできたことと、新型コロナと東日本大震災との共通点を抽出しながら、私が得た教訓をご紹介します。

政府は本当のことを言うわけではないし常に正しいとも限らない
震災直後の原発事故で、当時の政府・東電は当初「メルトダウンではない」と発表していました。
しかし私は海外メディアの報道などから「これは間違いなくメルトダウン」だと感じ、すぐに日本を脱出して東南アジアに逃げました。そして事故から2か月後、東電は「あれはメルトダウンだった」と公表するに至ります。
このとき、政府も企業もつねに状況を正確に把握できるわけではなく、本当のことを言うわけでもなく、組織はつねに保身に走るのだということを痛感しました。

そして9年後、中国・武漢で新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた際、中国もWHOも「ヒトヒト感染は起きていない」と言い、政府は海外からの渡航制限もかけませんでした。
しかし私は2020年1月21日にツイッターで「ヒトヒト感染が起きている」「これから春節で中国人が移動し、感染拡大は避けられない」「これから人混みを避けます」「WHOは世界機関として機能していない」などとツイートし自己隔離に入りました。
周囲からは「早い!」と言われましたが、その後の顛末はご存知のとおりです。

以降も私は行政の発言はつねに批判的に観察していますが、2020年3月〜4月には「休校は必要ない」「一般人はインフルエンザ同等の対策・対応で問題ない」「高齢者や基礎疾患保有者にリソースを集中させ、経済は止めるべきではない」と発言し、自分自身も普通に会食や旅行をしています。
一連の施策は行政の保身行動であり、この判断はあながち間違ってはいないという認識です。


PC1台でいつでもどこでもできるワークスタイル
地震直後の原発事故で放射線が拡散する中、仕事や家に縛られて身動きできない人をたくさん見ました。放射線被害に怯えつつ、子どもを学校に行かせている状況を目にしました。
津波で家が流されても「そこにしか住めない」と、再び同じ場所に家を建てる人も少なくなかったそうです。

しかし異常気象やそれに伴う自然災害が増加している現代において、移動したくてもできないというのは、ひとつのリスク要因だと感じました。
リスク回避という側面だけではなく、もし日本以外の国で、就職や起業や投資のチャンスがあるとわかったとき、動けなければそのチャンスを手にすることができません。
だから移動したいと思ったら、いつでも自由に動ける体制を作っておきたい。

そこで私は震災以降、経営していた会社の縮小に動きました。人を雇うのをやめて都心に借りていたオフィスも解約し、自宅兼事務所のひとり会社にしたのです。
そして仕事も、パソコン1台あれば完結できるスタイルにしようと、すべてデジタルで受発注から納品までできるものにシフトしてきました。
人と会ったり現場に行かないとできない仕事、モノを流通させる必要がある仕事を減らしてきました。
同時に不動産投資や太陽光発電投資に注力し、不労所得を増やしてきました。

そしてコロナ。
しかしこれまで取り組んできたおかげで、コロナの影響をほとんど受けずにいつも通りの仕事、いつも通りの収入で、困窮することなく普段と変わらない生活を送れています。
震災・原発事故で取り組んできたことが、そのままコロナ対応に活きた格好です。


家庭消耗品の備蓄
原発事故後の首都圏の混乱と言えば、生活消耗品や保存食の買い占め、あるいはガソリンスタンドに長蛇の列といった騒ぎでしょう。
地方に住む実家から首都圏に住む家族にトイレットペーパーなどを送ったなどというニュースもありました。

私もこの光景を目にしましたから、震災以降は意識して災害備蓄を増やすようにしました。
車のガソリンも、残量が半分を切ったら満タン補給する習慣になりました。
特に5年前に新築した自宅兼賃貸マンションには災害備蓄用の倉庫を設置し、水・カップ麺・トイレットペーパー・ティシュぺーパーなどといた生活消耗品を約3か月分以上のストックがあります。そして前述の自己隔離に入る際も、マスクを大量に確保しておきました。

そしてコロナです。
震災後と同様の買い占め騒動が起こり、ネット上には「買えない」「もう在庫がない」といった阿鼻叫喚の声が飛び交っていましたが、わが家では何も困ることなく乗り越えられました。
ドラッグストアの前にはマスクを求める客で開店前から長蛇の列ができていましたが、まったくの無縁で済みました。


市場暴落
大きな出来事があれば、ほぼ市場はいったん暴落します。これは過去何度も繰り返されてきたことです。
東日本大震災のあとも株式市場は大暴落しましたが、私はここで仕込んだおかげでのちに大きな利益を上げることができました。

同様にコロナ拡大で2020年3月中旬、世界の株式市場が大暴落しました。
私は再びチャンスだと考え資金を全力投球し、生命保険の契約者貸付制度を使ってまでも資金調達して買い出動しました。
おかげで買った銘柄のほぼすべてで利益を出すことができました。


厄災から何を学ぶか
多分に自慢話のように聞こえるかもしれませんが、これは偶然ではなく、歴史に学び準備してきたからだと私は考えています。
歴史から学ぶ意義はここにあると痛感すると同時に、教訓をどう活かすかという判断が問われるような気がします。

感染症がコロナで終わるとは限らず、第2・第3のコロナが発生する可能性もある。
「100年に一度」と言われても、101年後に来るかもしれない。
ゲリラ豪雨の規模も頻度も増し、台風の勢力も強くなっている印象です。河川の堤防決壊、内水氾濫のリスクが高まっています。
あるいは今後、首都直下型地震や南海トラフ地震は高い確率で起こると言われていますし、富士山の大噴火という可能性も指摘されています。
地震・津波・洪水で命を落とす危険、住まいを失う危険、仕事を失う可能性は十分にある。

特に富士山が噴火すれば、静電気を帯びた火山灰が首都圏に降り注ぎ、精密機械の内部に入り込んでショートさせ、ほとんどの電子機器が止まり首都機能を喪失させて大混乱が起きると言われています。
電気も止まって携帯基地局のバッテリーも3〜4日で尽き、震災時に有効だったと言われたツイッターなどSNSすらつながらなくなるかもしれない。
道路もスリップして車が走れず、海外に逃げたくても飛行機も飛べない。噴煙と火山灰で家から一歩も出られない。
物流が止まり、災害援助も遅れ、誰とも連絡が取れず、状況がまったく把握できず、なすすべもなく茫然と立ち尽くすしかない状況に陥る可能性は十分にある。

2021年2月13日深夜も東北・関東地方を比較的強い地震が襲いましたが、10年前の大混乱を思い出した人も少なくないと思います。
「災害は忘れたころにやってくる」ではないですが、余裕があるときに準備をしておくことです。
「試合が始まってから練習不足を嘆いても遅い」のですから。
posted by 午堂登紀雄 at 12:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする