2025年01月30日

新刊「教養としてのお金の使い方」発売のお知らせ

教養としてのお金の使い方 - 午堂 登紀雄
教養としてのお金の使い方 - 午堂 登紀雄

私たちを取り巻く経済・金融の環境はものすごいスピードで変化しています。
たとえばクレジットカードはもとより電子マネーカード、QRコード決済などの普及によって、物理的な現金を扱う機会が減っています。

するとお金は目に見えない単なる数字・記号となり、自分は何にお金を使うべきか、どんな価値にお金を払っているのかを、あまり考えずに気軽に支出してしまう状況が生まれやすくなります。

一方で企業はあの手この手で私たちに消費させようとします。
たとえばワンクリックで瞬時に買い物ができる、一度見た商品と類似の商品が洗脳かと思うほど何度もパソコンやスマホの画面上に表示される、サブスクリプションで割安に見せられる、「もうすぐ売り切れ!」「あと〇〇個!」などと焦らせるなど、執拗とも思えるマーケティングに日常的にさらされます。

さらにはSNSが浸透してくると、口コミやレビューなどといった他人の意見を参考に消費を決める頻度が増えます。
自分の価値判断基準を信じるのではなく、「他人が良いと言うから」という理由で、自分が何に支出すべきかという判断を他人に委ねてしまう。

あるいはキラキラした誰かの投稿を見てうらやましく感じ、自分も友人知人にウケたいと「映え」のためだけに高額な消費をすることもあります。

その結果、本当はもっと有効なお金の使い道があったのに、その余裕がなくなってしまうかもしれない。
周囲のみんなは素敵なレストランで外食できるのに、それができない自分は貧乏なんだと絶望してしまうかもしれない。
そんな生き方は誰も望んでいないと思います。

そこで本書では「教養としてのお金の使い方」を提唱しています。
一般的に言われる教養とは、社会生活を営む上で必要な文化に対する広い知的基盤や心の豊かさを差しますが、「教養としてのお金の使い方」とは「自分の人生を豊かにするお金の使い方」です。

前書「頭のいいお金の使い方」(日本実業出版社)でも述べた通り、私たちはお金を使いながら人生を形成しています。
お金はほとんどの問題を解決できる万能ツールですが、同じ包丁でも人が喜ぶ料理を作れる一方、誰かを傷つけることもできるように、使い方によっては「生き金」と「死に金」になることがあります。
そこでいかに死に金を減らし、生き金となるお金の使い方を実践することで、豊かな人生にしようというのが前書のテーマでした。

本書はそこからもう一歩踏み込んで、「読者の価値判断基準を揺さぶる」試みをしています。
というのも、「自分の考えと異なる主義主張に触れたとき、自分の価値判断基準を見直す契機になる」からです。

たとえば大学教育などでよく聞く一般教養は「リベラルアーツ」とも呼ばれ、これは「自由への技法」つまり様々な束縛から解放され自由に生きるための技術でもあります。
固定観念や先入観などに囚われると、自由な発想や物事の深い理解、あるいは応用ができなくなるためです。

そこで本書でも「自分の思考の枠を超え、お金を使うことで認識できる世界を広げていく」材料の提供に注力しました。

どういうことかというと、本書はあくまで私個人の考えをベースに論じていますが、その中には「それは違うんじゃないの?」「自分はそうは思わない」というものも出てくると思います。

すると、自分の主義主張の弱さを埋めようと考えたり、全部は賛同できなくても部分でも良いと感じる考えを取り込んだり、別のもっとよい第三の方法を編み出したりなど、自分の思考の枠を超えるチャンスでもあるのです。
 
そうやって獲得した教養は、より戦略的なお金の使い方を考える土台になります。

「戦略的」とは、自分の目的を達成するための最短かつ合理的な方法論のことですが、これを自分の力だけで考え実践できるならば、どんな時代環境でも有利に快適に生き抜くことができるでしょう。

円安、インフレ、金利上昇など、個人を取り巻く経済環境は悪化しているようにも思えますが、「ピンチはチャンス」とも言われるように、視点を変えれば機会を創出しやすい環境でもあります。

本書ではそのヒントを多数紹介していますので、ぜひ「教養としてのお金の使い方」を身につけ、自分の人生を有利に展開するきかっけになれば、著者としてうれしく思います。

posted by 午堂登紀雄 at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月07日

子を持つと自分の個は失われるのか?

私自身は子育てが楽しいし、18年間という期間限定の娯楽という受け止め方をしています。

なので下記の記事のように重く考えたことはなく、筆者はきっと見えない恐怖や不安が先に立っているんだろうなあと思います。

「女友達のSNSが「子どもの写真」ばかり… “産まない私”が距離を取って気づいたこと」
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/01051101/?all=1
デイリー新潮の記事ですが、元ネタは『産む気もないのに生理かよ!』(月岡ツキ著、飛鳥新社)だそうです。

それでなぜこの記事の内容が気になったかというと、この筆者の友人が子どもを産んで「変わってしまった」とか「個が削られる」「個を失う悲しみもある」と指摘していて、それはちょっと一面にしか過ぎないよなあと。

むろん言論は自由ですから何を主張してもよいのですが、こういう見方を公表することは、それを読んだ読者の子を持つ意欲を失わせたり、不安をさらにあおっていくミスリードになる気がして、放置できない気になったのです。

確かにここからは私個人の価値観に過ぎず、万人にとって正しいなどと言うつもりはない。
でもこういう記事を書くということは、実はこの筆者も本音では子どもを持ちたいのかもしれません。

それが最後の『私の「子なしは肩身が狭い」という愚痴も聞いてほしい』という発言に集約されているような気がします。
「産まない」というのが自身の価値観であれば自分の判断に自信を持てばよく、肩身が狭いとか感じる必要はないからです。
友人がどういう生き方をしようと、同調圧力があろうとなかろうと、自分とは考えが違うだけ、ゆえに堂々と生きればよいだけの話。

なのにいろいろ書いているのは、その判断に自信がなく、でも気になる。
かといって子を持つ覚悟も持てないから、自分を正当化するのに必死なのかもしれないなと。

月岡氏は30代を迎えたばかりとのことで、同年代の友人知人が出産ラッシュを迎え、SNSも子育て一色に戸惑ったとのことですが、そもそも子どもが小さい20代や30代前半などは母親としてのウエイトが大きくなるのは当然です。
それはたとえば自分が就職した時や重要なプロジェクトに関与しているときなどは仕事に全振りするのと同じようなものです。

人はそのライフサイクルの中で様々な役割を得ますが、その役割が大きい時期があるか、小さい時期があるかの違いだけで、そのときのピンポイントを見て嘆いたりあれこれ指摘するのはナンセンスかなと。

それに友人が変わってしまったとありますが、新しい役割を担えば価値観も動き方も生活スタイルも変わっていくもので、むしろ変わらない方が進化・成長していない感じがします。

他人に対して「あの頃から変わってほしくない」というのは大層なエゴのように思えますし、むしろ失礼ではないかと。

それに、本当に変わらない根っこの部分は、どんな生き方をしてもそう変わらないもの。
それを母親の役割が大きいからと見えなくなるのは、固定観念によって目が曇るからかもしれません。
その友人のどこが気に入って友人関係を続けてきたのかを深堀りすれば、変わっていない部分があることに気づくと思います。

私も数年に一度、高校時代の同級生の東京組との懇親会に参加することがありますが、話し方やリアクションを見れば「変わらないなあ」と微笑ましく感じる部分は確かにある。

一方で個人的に思うのは、いつまでも変わらないことでなつかしさを感じることよりも、「すごい仕事してるんだなあ」とか「大物になったなあ」と感じられる方が同級生としてはうれしいです。
社会に出て30年も経てば、みな社会的な立場も変わりますから。

まあ、かつての同級生と会ったところで、高校時代の思い出話とか、「あの人はいまどうしてる?」みたいな話題が中心で、仕事の話や悩みごとの相談などをするわけでもないですし。
利害関係があるわけでもないので、変わったとか変わらないとかは実はさほど重要ではないような気もします。

あと筆者は「母親という新しい役割を持つと個が削られる」と考えているようで、おそらく自分の時間がなく自分を見失うとか、自分らしくなくなるという意味なのでしょう。

しかしそれこそ「人それぞれ」で、子や子育てに依存するタイプの人はそうかもしれませんが、自分らしさを失う人もいればそうでない人もいるだけではないかと思います。

たとえば部活でも、後輩が入ってくれば自分には新たに「先輩」という役割が発生し、後輩の指導や練習メニューの考案などをやるようになりますが、それで自分らしさを失うかというと、そうではないでしょう。

母親だけでなく、その前には恋人としての役割、結婚すれば妻としての役割が生まれますし、会社に入れば新入社員・中堅社員・上司・幹部、起業して人を雇えば経営者など、いろいろあっても自分は自分のはず。
それで必ずしも個が削られるというわけでないでしょう。
(まあそれで自分らしさを失うことでウツとか精神疾患に陥る人もいるのだと思いますが)

子育てをしながら個を失わない人を、「めちゃくちゃお金がある」「めちゃくちゃ馬力がある」「実家などのなんらかの手厚いサポートがある」「子供が丈夫だったり利発だったりして手がかからない」のどれか、もしくはそれらをいくつも持っていたりするので、誰にでも再現性があるとは言えないとのことです。

ウチの場合、お金は投資に回しているから生活水準は一般家庭と変わらない。
馬力があるのはヨメだけで、自分は引きこもり気味。
実家のサポートはほぼゼロ。
長男は発達障害。

でも何とかなるものなんですよね。

筆者は「母になったら人は変わらざるを得ない」とおっしゃっていますが、本質的な部分が変わるのではないように思います。
自分に与えられた(あるいは自ら掴んだ)新たな役割を全うするため、いままでの自分が持っていなかった様々な知恵や経験を身につけて進化していくということではないでしょうか。

部活でも、キャプテンになって大きな大会に出場するようになれば、「おっ!キャプテンらしくなったな!」と感じますよね。
仕事でもプロジェクトリーダーを任されたり、課長や部長になれば、同僚だったときよりも明らかな変化がある。

それを変わったと言うなら、先ほどのように「成長したくない」「他人にも成長してほしくない」というわけで、それは余計なお世話であり傲慢さではないかと。

むしろ多様な役割を引き受け多様な顔を持つことで経験が広がり、人間としての器の大きさや深さにつながっていくわけで、それはとても充実したことのように思います。

逆に人生の中で引き受けてきた役割が少ないほど、浅く単調な気がしてしまいます。
(その方が平和でラクという人もいるとは思いますが)

だから友人だと思っているのであれば、新しい役割を担って充実していく彼女たちの人生を、祝って称えてあげればいいのではないかと思います。
将来の日本を背負って立つ子どもたちの存在は貴重なのに、「自分は息苦しい、自分は肩身が狭い、自分は・・」と自分の気持ちだけを最優先に周囲を語るというのは、様々な不安や葛藤で視野が狭くなっているのかもしれません。

少なくとも「なんか違う」などと自分から勝手に距離を取るのは、友達とは言えないような気もします。
子がいてもいなくても、子育ての話題に入っていけなくても、「うんうん、そうなんだー」とうなずいてあげて、自分は自分の仕事や趣味の話をすればいいんじゃないかなと思います。
それが疲れるというなら、特に連絡を取り合ったりせず、温かく見守るだけでいい。
(実際、筆者もそうしているようです)

私もSNSでつながっている友人知人の多くの関係はそのぐらい淡泊です。
子育てでも、私は同級生とは周回遅れどころか人によっては2周遅れです。
私はいま1歳の赤ちゃんを育てていて、でも同級生のお子さんは大学進学とか就職や結婚、あるいは孫ができたりなどステージは違うものの、別に違和感はない。

私自身は子を持って得たものはたくさんありますが、失ったものは何もないと感じています。
むしろ新しい趣味・娯楽が増えたという感じです。
お金や自由な時間を失うという人もいますが、そこでたとえばペットのネコちゃんワンちゃんを飼っている状況を考えてみる。

エサを食べている姿もかわいいから、エサ代がもったいないとか思わないですよね。
猫じゃらしで遊んだり、犬の散歩に行くのも「自分の自由な時間が奪われる」などとは思わないでしょう。
むしろ至福の時間です。

「人間とペットを同じにするな!」「責任の重さが違う!」
という声も聞こえてきそうですが、私にはペットと同じ感覚で、それで何も問題ないと思います。

抱っこしたり一緒に遊ぶのも同じですし、エサを与え(ご飯を食べさせて)、トイレ砂を換えて(オムツや服を換えて)、しつけを覚えさせて(家庭でのしつけや保育園や学校に行かせて)とか、やはり似たような要素を含んでいます。

違うのは、人間は言葉でコミュニケーションし、ペットよりは意志や感情があり、社会生活を営むこと。
でも自分も経験している以上、別に特別なことじゃない。

「子どもたちにとって生きづらい時代になった」などと言う人もいますが、たとえば40年前、私が子どもの頃は黒電話が家庭に1台しかなかったんですよ。
なんと便利で豊かな時代になったんだと感慨深いものがあります。

それに子どもはいつかは親元を離れて一人立ちしていきますから、再び自分だけ(あるいは夫婦だけ)の生活が始まります。

子を持つことを不安視する人はお金の問題だけでなく「責任が重大」などと大げさに構えがちなところがありますが、親ができることなんて子ががんばるサポートぐらいではないでしょうか。
子の健やかな成長(健全な心身の発達)には責任がありますが、それ以外は子どもが本人の力で掴み取っていくわけで、親はその側方支援をするのみです。

私自身、親の言うことなんて聞かず、好き放題やってきました。
進学でお金がないときは奨学金を借り、CPA受験の専門学校代も自分でローンを組んだし。
それらも自己責任ですべて返済してきた。
(まあ自分の経験談を引き合いに結論づけるのは生存者バイアスだとはわかっていますが)

子育ての主役は実は親ではなく子ども自身なのですから、親の責任なんて言うほど大きくない。
むしろ虐待やネグレクト、ガミガミうるさいなどの過干渉などをせず、見守るだけという子の成長の邪魔をしないだけでも立派な親だと思います。

つまり子を持つことによって、自分の本質的な部分が変わるわけでもないし、個を失うわけでもないから、そんな難しく重く考えてビビらなくて大丈夫ですよ、というのが私の考えです。


posted by 午堂登紀雄 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする