2021年04月28日

私も50歳になりました

2021年4月28日、ついに私も50歳になりました。
節目の年齢でもあるので、ちょっと感じていることをつらつらと。

自分がおよそ90歳ぐらいまで生きるという仮定に立てば、すでに人生の後半戦に差しかかっていることになる。(100年時代とはいえ、実際には男性の平均寿命は90歳ぐらいで落ち着くのではないかという想定)

20代や30代の頃には、50歳の自分なんてまったく想像できなかった。
先も見えて衰え、下っ腹も出て、能力的にも下降を始めるおっさんぐらいの認識だった。

しかしいざ自分が直面すると、まだまだ頭脳は冴えていて、上り坂であることに気が付く。(知らんけど)
むろん成長曲線は緩やかになり、かつてのような実務能力の急激な成長は見込めなさそうだが、思考力や判断力、メンタル面などの部分で成長できていると実感できる。(知らんけど・笑)

もちろん当然ながら運動能力も見た目の若さも衰えている。
10代の頃は、たとえば5,000メートルを15分台、100メートルを11秒台で走っていたのに、今は見る影もない。
頭髪はすでに半分くらいが白髪となり、10年後はおそらくほぼ真っ白になるだろう。自分の父親に似るならば、頭髪そものものがなくなっていくかもしれない。
シワやシミも増えた。

しかし、そもそもそこは、自分が価値を発揮する領域ではない。
どんなにかけっこが速くても1円にもならない。見た目が若くて周囲から憧れられても、自分のアウトプットの価値とは関係ない。
アンチエイジングだなんだと年齢に抗うのではなく、自然体のナチュラルエイジングというか、年齢に相応しいグッドエイジングというか、そこは流れに任せようと思う。

そして、時間の使い方は、かつての自分中心から、家族中心へと変わってきた。
成長の一要素に「喜びの目線が変わる」というのがあるが、会社員時代や起業当初の頃には面倒くさいと思っていた子育てが、いまは喜びになっている。

そんな自分の人生の後半戦の役割のひとつは、「自分が自分が」よりも、次の世代にバトンを渡すことではないかと思っている。
後世に引き継がせたいことは何か、自分が若い世代に差し出せるものは何か。それを模索し、情報発信していく。
ただしスタンスはこれまでと変わらず、「自分が実践し本当に良いと思ったことを紹介する」「失敗も含めて公開する」という姿勢は貫きたい。
そもそも自分でやらずして良い悪いという評価はできないし、それは無責任だと思うから。

そのためにも「つねに新しいことに挑戦する」が必要になる。
だってそうしないとネタが尽きてしまうし人生もつまらないから。
そう考えれば、失敗は恐れることではなく、むしろ「ネタになる」わけでうれしいことになる。
これはとてもラッキーなことだ。

もうひとつの役割は「思考停止していくこの社会から人々を救う」こと。
「救う」と言うと大げさだけど、「こういう考え方もあるんじゃない?」という提案に近いだろうか。

世の中は確実に思考停止社会に向かっている。
たとえば書籍の売上が減り動画が全盛になるのは、考えてなくていいという側面があると思う。
なぜなら、動画は時間当たりに得られる情報量が、文字と比較すると圧倒的に非効率だから。
「本当?」
「それはなぜ?」
「その本質はどこ?」
などといちいち考えるのは確かに面倒なんだけど、でも考えることから逃げる人は、より賢い人が考えた仕組みに搾取され続けることになる。

そして多くの人は「こうあるべし」「こうあってはいけない」という思い込みに縛られている。
そういう社会の無言の圧力に従わされている。
それも思考停止のひとつの症状だと思う。

たとえば長男の小学校の学校説明会に行ったとき、クラス35人中、出席していた保護者は全員ママで、パパは自分一人だった。
これも「子育てはママの役割」という暗黙の了解に縛られているということだと思う。

私たち夫婦は仏滅に結婚式を挙げたのだが、それで割引を受けられたし、他のカップルもいなかったので、1時間も延長したのに大丈夫だった。むろん延長料金もない。
仏滅や大安を定める「六曜」はもともと中国由来の慣習で、でも本家の中国では意味がないものとしてとうに廃れている。
つまり根拠などなく、それを気にする理由もない。
ほかにも「高校生らしくない」とか「不謹慎だ」などという批判も、それを言う人が単に気に入らないというだけであって、合理的な理由や判断基準なんてない。

そうした、この世を覆う根拠のない固定観念や社会の圧力に気づいてもらい、自分の頭で考え、自己責任で判断・行動できる人が増えるよう、啓蒙活動を続けていこうと思う。

一方、子育てについては、18年間という期間限定の娯楽のような側面がある。
自分にとって子育ては単なる娯楽。
責任とか子どものためにとかじゃなく、自分が楽しいからやっているだけ。
そしてわが家は自分のときと同じく、高校を卒業すれば家から出て自立してもらう予定にしている。

18,19歳にもなれば、もう親の支援は必要なく、自分の生き方は自分で決められる、という人間になってもらいたい。(もっとも、自分のときのように親に反抗して期待通りにならない可能性もある。それもまた楽しいだろう)
だからそれまでは子をよく観察し、子の意志や自発性を尊重し、先回りし過ぎず考える力をはぐくみ、求められたらサポートは惜しまず(でも安易に答えは教えずお金も残さない)、子の没頭を応援しよう。

そのためにも、お金はもちろん、時間や思考の領域を空けておかなければならない。
かつては起業家・経営者として複数の企業を経営し、つねにいくつものプロジェクトを抱え、いろんな事業部門を立ち上げていた。
全方位に興味関心のアンテナを張っていたこともあり、時間も精神的な余裕も少なかった。
それで子育てが面倒とか、自分の健康にも無頓着だった側面はあると思う。

しかしいまは全面的に流行を追うのではなく、自分にとって重要・必要な領域だけをアップデートし、それ以外のことはいままでに確立したやり方を変えずに生きる方が効率的だろうと割り切っている。
自分がアップデートする分野を絞り込むことで余白時間が生まれるから、家族の時間、健康のための時間など、限りある自分の時間をうまく配分していくことになる。
何にウエイトを置くかというバランスの組み換えであり、何をショートカットやスキップして手抜きするかという、選択と集中でもある。

そしておよそ20年後には、再び夫婦二人だけになる。(ひとりだったりして?笑)
自分には定年退職や再就職という概念はないから、生涯現役で仕事を続けていくことになる。子は巣立っても、自分の人生は以降も続く。
自分のワークスタイルや得意分野、興味をそそられる領域が固まってきたから、大きな路線変更はないかもしれないけれど(あったらあったで楽しいけれど)、知的好奇心を失わず、新しいことには取り組んでいきたい。

とはいえ確かに、かつてのようなフットワークの軽さはない。
主催する起業塾に来ていた25歳の塾生が、「固定の住居を持たず、ホテルを転々とする生活をしようと思う」というのを聞いたとき、「その発想はなかった」自分に気づく。
かつては海外投資で世界を飛び回っていたけど、最近は面倒くさいと感じる。(現実問題としてコロナで行けないけど)
おそらく感動とか価値観の違いの認識やらはすでに織り込み済みなので、自分の感性や視野拡大に刺激を与える余地がもう小さいからだろうと思う。

わかりやすく言うと、スマホに慣れた人が、今さらタブレットや最新鋭スマホに乗り換えたところで、新しい自分や新しい視座が見つかるなんていう期待は薄いようなものか。
良くも悪くも「自分はこういう人間だ」「自分にはこういう生き方が似合っている」というものが固まってきて、自分探しをすることもないし、迷うこともない。

ただしそれがこじれると、「好奇心を失う」「ガンコ」「頭が固い」「変化を拒む」「現状維持」「既得権益にしがみつく」になるから注意は必要だ。
それを防ぐために意識しているのは、「自分には知らないことはいっぱいある」「自分の考えが間違っているのではないか?」「もっといい方法があるのではないか?」と振り返ること。
自分の無知や固定観念に気が付くこと、そしてそれを受け止め軌道修正できること。
無知の知を自覚することは人生のバージョンアップに役立つはずだから。
現実にはなかなか難しい行為なんだけれども。

また、自分の価値観という軸は大切にしつつも(その軸すら柔軟に変える必要はあるけれども)、前述の通り自分の幸福に寄与する領域はつねに最先端にしておこうと思う。
その軸はいまのところ「自由」に設定している。

自由とは「自分で選べる」「環境変化に翻弄されない」「他者からの干渉を受けない」ということ。
自分で選べるためには、経済力が必要。
環境変化に翻弄されないためには、複眼的な思考力が必要。
他者からの干渉を受けないためには、メンタルの強さが必要。
だから引き続きこれらを鍛えていこうと思う。

そして、いままで以上に面白いと思えることだけをやり、面白くないことはやらない。
自分の好奇心の対象が狭まっているとはいえ、やりたいと思えることは何でもできる現代日本は、やはり素晴らしいと思う。
海外を見てきたからこそ、よくわかる。
あと40年、いやいや、まだ40年もある。
コロナや自然災害に限らず、これからも想像すらできなかったことが起こるだろうけれど、未来は明るく楽しみだ。
posted by 午堂登紀雄 at 14:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月12日

最新刊『人生は「あきらめる」ほうがうまくいく!』(河出書房新社)発売のお知らせ

最新刊が発売されました。

人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄
人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄

2020年、世界中で猛威をふるった新型コロナウイルス。この影響で、多くの人がさまざまなことをあきらめざるを得ない状況に追い込まれました。

事業の継続を断念した、仕事を辞めた、進学や学業をあきらめた、結婚式や告別式をあきらめた……。
この「あきらめる」には、無念さ、苦しさ、みじめさ、挫折、夢破れて撤退、といった苦渋に満ちた敗北のイメージがあります。
また「あきらめた人」には、無能、意志が弱い、根性なし、無責任、などというダメ人間のイメージがあります。

一方、「継続は力なり」「あきらめたらそこで試合終了だよ」「石の上にも3年」「初志貫徹」などの言葉が私たちを縛ります。努力という名の宗教が、社会的な圧力をかけているようにすら感じます。

しかし、あきらめるのはそんなに悪いことなのか。あきらめたら本当に試合は終了するのか。
これまで私はあまり深く考えてきませんでしたが、探ってみたいと思い書いたのが本書です。

私の人生はあきらめたことのほうが多い

というのも私自身、振り返れば多くのことをあきらめながら生きてきたからです。
たとえばこんなことです。

・小学校のとき、アマチュア無線に憧れて免許を取ろうと思ったけれどむずかしすぎてあきらめた
・中学校ではバレーボール部のキャプテンをしており、高校ではバレー強豪校への進学を考えたこともあったが、毎回地区予選で初戦敗退の自分の実力ではレギュラーにすらなれないだろうとあきらめ、距離の近い新設校へ進学した
・東京で進学したいが国立大学は東大・東工大・一橋大・東京外語大など難関ばかり(他にもあったのに当時は知らなかった)なので受験はあきらめ、私立大学に絞った
・日本の公認会計士をあきらめた(他にも旅行業務取扱管理者や社労士、証券外務員、宅建などの通信講座の教材を買ったことがあるものの、ほぼ手をつけずに捨てた)
・英語の習得をあきらめた(ずっとコンプレックスを抱え、吹っ切れたのがなんと44歳のとき!)
・事業をあきらめた(車のカスタマイズ事業、不動産検索サイトの運営、エステサロンの経営、化粧品の通販、不動産仲介業、語学留学斡旋業など)
・経営者として組織を率いることをあきらめて「ひとり会社」になった。

一方で、あきらめなかったこともあります。

・米国公認会計士(とにかく合格するまで1年半粘った)
・執筆業

あれ、これだけ? あきらめなかったことよりもあきらめたことのほうが多い!
でも振り返って考えてみれば、あきらめるというのは選択と決断だったというのが素直な感想です。

あきらめるとは、自分に向いていない道を捨てて、より向いている道を模索することのような気がします。

私は「経営者」をあきらめ、「執筆業」をあきらめなかったわけですが、それは自分が本当に好きなことを選ぶことでした。
そして、前の試合はたしかに途中で終了したかもしれないけれど、自分が勝てそうな新たな試合が始まったということに気がつきました。

自分に向かないと感じたこと、充実感を覚えないこと、儲からないことを何度も何度もあきらめて、ようやく今の最高に幸福な状態にたどり着くことができたのだと思います。

子どもの頃に思い描いた夢をずっと持ち続け、それを実現した人ももちろん素晴らしい。
でも、あきらめたからこそ手にできる道もあります。

プロ野球選手になることを選べば、プロサッカー選手になることも、フィギュアスケートでオリンピックに出ることもあきらめなければなりません。掛け持ちでは労力が分散し、一流にはなれないでしょう。

この人と結婚することを選べば、あの人との結婚はあきらめなければなりません。
日本では重婚は法律で禁止されているし、掛け持ちするとむしろ大変なことになりそうです。

二兎を追って二兎とも得られれば、もちろんそれが理想。
私自身、さまざまな場面で二段構え≠意識しています。
しかし、二兎を追う者は一兎をも得ずということも、現実にはやはり多いような気がします。

未来を明るくする前向きなあきらめ方が必要

人生は選択の連続で、その積み重ねで今がある。
もしあそこで違う選択をしていたら?
違う大学に進んでいたら?
違う会社に就職していたら?
あの会社に転職していたら?
別の人と結婚していたら?

そんな大きな決断だけでなく、どの本を読むか、誰に会うか、何を勉強するか、何にお金を投じるか、あの人からの誘いを受ける(断る)かといった小さな決断によっても、「別の道を選んでいたら、違う人生になっていたかもしれない」と思うことはたくさんあります。

私自身、違う高校に行っていたら? 別の大学を選んでいたら? あの会社に就職していたら?
もしかすると、今のような自由な生き方をしていなかったかもしれません。
違う人生を生きることも試すこともできませんが、でも選んだ道の軌道修正はできるし、今から別の道を選ぶことはできます。

もし今が不満であれば、これからの選択を適切にすればいいだけのこと。
それには今やっている何かをあきらめなければなりません。
あきらめるとは「幸福に向かうチョイス」であり、「より大事なものを選ぶために、そうではないものを捨てる」ことなのでしょう。

それには、「失意」や「挫折」によるあきらめ方ではなく、よく言われるとおり「未来を明るくする、自分の適性や才能を明らかにする」という前向きなあきらめ方が必要です。

物事をあきらめるタイミングはあるのか。どういう場面ならあきらめたほうがいいのか。良いあきらめ方があるとすれば、それはいったい何か。
本書は、そんな発想や技術を提供する、幸福に向かう「あきらめ本」という位置づけで書きました。
この本が、あきらめずられずに苦しんでいるあなたにとっての選択や判断の一助になれば幸いです。 

人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄
人生は「あきらめる」ほうがうまくいく! - 午堂登紀雄
posted by 午堂登紀雄 at 15:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする